聖ニコライの渡来

聖ニコライが箱館領事館付司祭として渡来したのは1861年である。前年領事館の敷地内に復活聖堂が完成したが、領事館付司祭であったマアホフ親子は病気等により相前後して帰国していた。ゴシケヴィチ領事は外務省を経由してロシア聖務院に後任の司祭派遣を要請する。
  サンクトペテルブルグの神学大学在学中にゴロウニンの書いた「日本幽囚記」を読み日本に興味を抱いたと伝えられる聖ニコライが箱館領事館付司祭として来日したことは、天の配剤と言うべきものだろう。「宣教師になる」という漠然とした希望が確かなものになったのは、日本の箱館領事館付司祭を募る聖務院の文書を偶然目にした時であった。

聖ニコライは応募者四名の中から選ばれ、1860年6月22日(露暦)剪髪式を受けて修道士となり名をイオアンからニコライと改めた。6月27日には輔祭、さらに6月30日(露暦)ペトル・パウェル祭の日にサンクトペテルブルグ神学大学の十二聖使徒聖堂で司祭に叙聖された。
聖ニコライは後に日本での伝道活動が軌道に乗ってくると、このペトル・パウェル祭の日を神品会議の日と定め、日本における伝道方針を定める会議の日とした。これは現在まで続き、公会の日程はそれを基準に開催されている。

聖ニコライが親兄弟たちと別れ日本に向けてシベリヤ横断の旅に出たのは8月1日(露暦)であった。この別れの時に父デミトリイからもらったハリストスの聖像は生涯聖ニコライの自室にあったという。
  聖ニコライの事蹟をまとめた「大主教ニコライ師事蹟」には日本までの旅が簡潔に記されている。

 「1860年8月1日彼は萬里遠征の途に上つたのである。乃ち一輌の馬車を購ひ、自ら御して途をシベリヤに取り、交通未だ開けず、狼群の横行する策漠の曠野を、單身孤笈飄然として跋渉し、8月末にイルクーツクに着したのである。それからアムール河を小舟で下つたが、途中風浪の厄に遭ひ、覆没せんとしたのを天佑に依つて免れた。10月に至りニコライフスクに着したが、時恰も冬期に入つたので、日本への航路は断たれ、どうしても此地に越年せざるを得なかつた。性急で前途に多大の抱負を有する彼としては、途中に荏苒を送らざるを得ざる苦痛は堪へ難き所であった。然るに此時カムチャツカの主教インノケンテイ師―後にモスクワの府主教となった高徳の人―も越年の為此地に滞在中であつた。之が為に途中の障碍は却て僥倖となり、此に於て先輩の知遇を得、其教訓を受け、未開の民を教化せる實歴談を聴いて、益々前途の希望を堅固にしたのであつた。翌年(我文久元年)の4月に航路が開けたので、諸港灣を廻航する軍艦アムールに乗り、同年6月2日(我14日)に函館に到着した。露都出発以来幾んど一個年、直ちに領事ゴシケウイチに會見した。」

1861年、単身箱館の地に降り立ったのは二十代の修道司祭聖ニコライであり、この年は日本正教会にとって記念すべき日となる。

ここで改めて聖ニコライの生い立ちを記してみよう。
聖ニコライはイオアン・デミトリヴィチ・カサートキンといった。1836年8月1日(露暦)ロシアのスモレンスク県ベリョスキ郡ベリョーザ村(別名エゴリヤ村)に生まれた。父は村の教会の輔祭を務め、デミトリイ・イワノヴィチ・カサートキン。母は輔祭アレキシイ・サヴィンスキイの娘でクセニヤといった。この両親のもとに長男ガウリイル、長女オリガ、次男イオアン(聖ニコライ)、三男ワシリイが生まれた。ガウリイルは生後5ヶ月で夭折し、母クセニヤも聖ニコライが5才の時に35才の若さで永眠した。姉は嫁ぎ、弟ワシリイはスモレンスクの神学校を卒業し司祭となる。なお父親デミトリイは1867年に隠退し、ワシリイ神父のもとで老を養い、1878年3月10日(露暦)に永眠した。

「大主教ニコライ師事蹟」では「イオアン・ディミトロウィチは身体強大、意志剛毅で、而も父の薫化に因り敬虔、熱心、克己、堅忍の性格を備えた」と記しているが、まさに聖ニコライの生涯を表していると言えよう。1857年スモレンスクの神学校を首席で卒業し、官費生として同年、首府サンクトペテルブルグ神学大学に入り、1860年に卒業し、日本に向かう。

明治44年7月に刊行された「ニコライ大主教宣教五十年記念集」の緒言には本の表題を「来朝」とせず「宣教」としたのは「師が日本へ渡航した本来の目的は遥かに偉大で、将来我が日本全国を基督教化せんとの大望であった」からであるとわざわざ説明している。

聖ニコライが渡来した当時の箱館は開港間もなく活気に満ちた町であった。幕末の混沌とした世であったが、主として東北出身の有為の人材が野心をいだいて続々と集まっていた。浪人のほか、医者、商人、神官、僧侶などあらゆる階層の人々で、南の長崎と同じような様相を呈し、攘夷論、開国論をいだく者たちが右往左往していた。

1861年6月、聖ニコライは箱館領事館付司祭としての職務に就くが、領事館の司祭は館員の為に宗教上の聖務を掌るだけに限られたものであった。
  この年の9月に、先にニコラエスクで知遇を得たインノケンティ大主教がカムチャッカに行く途中に船が暴風に遭い箱館に寄港した。インノケンティ大主教が箱館からガウリイルという神父に送った手紙には「わたしは領事館で世話になり、領事館で食事をしている。・・・ニコライ神父はお元気で十六人もの書生をもっている・・・」と記されていたという。この人たちがどのような人たちであったか確認できないが、数ヶ月の間に多くの日本人との接触があったことは間違いない。

日本語や日本の文化の教師をしたのは秋田大館の医師木村謙斉であった。木村は藩命により秋田藩兵が北海道に渡り、警備についた時に軍医として渡島した人で、一度帰郷の後再び箱館に来て、医業と私塾を設け、北海道警備の武士たちに漢籍を講じていた。この木村のもとに通訳を連れて国史、神道、仏教など東洋の宗教や学問を研究したが、それに伴い様々な階層の日本人との接触も広がっていく。
アメリカに渡航する新島七五三太(襄)が聖ニコライと親交を持つのもこのころである。

約8年間を日本語の修得や風俗習慣の研究をした聖ニコライだが、伝道の確信と希望をこめて、1868年(明治元年)いまだ一人の日本人の信者がいない中、自ら布教伝道の方針を建て、14条から成る「宣教規則」を定めている。集会が週に2度あること。信経、天主経、十戒を中心に伝道すること。録名帖(メトリカ)を作ること。500人の信徒ができたらその中から司祭を選立することなど、近づきつつある伝道の開始を見据えた大方針を明らかにしたのであった。
このころ日本はさらに動乱と混乱の時に入り、箱館にもこれまでに増して内地から多くの者が入ってきた。維新戦争で敗れた諸藩の行き場のない者や様々な理由で新天地を求めて来た者たちであった。時代の変革に身の置き所を求めた者たちと聖ニコライとの出会いにより、日本における正教伝道という道筋が啓かれることになる。

ページ上部へ戻る