地上の教会から天上の教会へ

聖ニコライは幾度となくロシアから勲章を与えられている。彼は勲章について「なんのために祝いなさる。勲章を賜る陛下の気持ちはありがたいが、実をいうと勲章などというものは、宣教師や聖職にある者にはまったく不適当です。ならば、このような制度はわたしたちのためにまったく廃したほうがよいです。」と自ら語ったと伝えられている。明治43年(1910)12月、聖ニコライはロシア皇帝ニコライ2世から聖ウラジミル一等勲章ならびに親署の勅語を賜った。この勲章は当時ロシア最高勲章につぐもので、当時のロシアの聖職者中この勲章を受けたものは稀であったということである。

聖ニコライの生涯は、一貫して伝道活動に終始した。晩年においてももっぱら布教伝道と牧会とにその関心はあった。後継者としてはセルギイ主教が身近にあった。彼はよく全国各地を巡回し、戸別訪問をして、聖ニコライのなした伝道の畑の手入れと強化を図った。明治44年(1911)は聖ニコライが日本に渡来されて50年にあたった。このことと大主教への昇叙とを祝って盛大な祝典が挙行された。このときの教勢は教会数265箇所、信徒数31,984名、神品数41名、聖歌隊指揮者15名、伝道師121名、年間の洗礼者1,099名と、一大教団となっていた。

明治43年(1910)11月、聖ニコライは心臓病を患った。医師は重症との診断をくだし、静養をすすめたが、彼はきかなかった。明治44年の祝典の後も病状は進んだが、平素の教務をやめなかった。明治45年(1912)1月の降誕祭にも祈祷に立ち、14日にも奉神礼に参加し、その日の午後苦しみだして医師の往診を受けた。24日聖ルカ病院に入院するも、翻訳の仕事をすすめ2月3日に終える。退院後、聖務院への報告書を書きあげた。そして、2月16日夕方6時半永眠、76歳であった。大主教の永眠を知らせる大聖堂の鐘が打ち鳴らされた。

聖ニコライの逝去の報が四方に伝わると内外の高官や朝野の有名な人々、信者、名も知れない人々が大聖堂に安置された棺に集まった。22日、埋葬式が執り行われ、3000人を越える会葬者は聖堂内外を埋め尽くした。華族、軍人、政府の顕官ら、外国武官、外国宣教師、新聞記者、通信社員、各教派の代表たちが列席。埋葬祈祷は、主教セルギイ師の司祷によって、30数名の司祭が式に参列して執り行われた。宮内省より侍従によって御賜の花環が贈呈され、拝受した。

祈祷ののち会葬者は谷中の墓地まで十字行を行った。沿道には2月の寒風に吹きさらされた人々が、聖ニコライの棺を見送った。埋葬のとき、セルギイ主教は土塊を棺の上に置いた。棺は「人を愛する救世主や」という聖歌の歌われる中に、静かに墓穴に下ろされた。日本の亜使徒大主教聖ニコライは永遠の眠りにつかれたのである。

昭和45年(1970)4月10日、日本正教会代表団はモスクワにおいて総主教アレクセイより、日本正教会の聖自治教会(アウトノミヤ)の祝福を得た。これを契機に1917年のロシア革命による関係断絶、及び第2次大戦終戦後の在米ロシア正教会との関係を経て、日本正教会はロシア正教会と正常な教会法的関係に復帰し、聖自治教会として再出発を果すこととなる。また、同日、日本の亜使徒、大主教ニコライを聖人の列に加えることが決定され今日に至るのである。

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