住所 |
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〒980-0021 宮城県仙台市青葉区中央3丁目4-20 所在地マップ |
TEL/FAX |
022-225-2744/022-224-3080 |
管轄 |
大主教セラフィム 辻永昇 長司祭ダヴィド 水口優明 |
orthodox@hyper.ocn.ne.jp |
URL |
http://www.sendai-orthodox.com/ |
お祈り(晩祷・聖体礼儀) |
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・毎日曜日午前10時 ・毎土曜日午後5時 ※どなたでも参祷出来ます。 ・教会の暦に従って復活大祭を中心に、救主イイスス・ハリストス(イエス・キリスト)や生神女マリヤと諸聖人を記憶する祭日が年間を通してあり、お祈りが行われます。 |
伝道会 |
毎週水曜日午後6時より7時半まで聖堂で、正教会の諸習慣・聖書を題材とした伝道会を開催しています。信者・未信者を問わず、また洗礼を志願する人にも開かれた学びの会です。 |
日曜学校 |
・教会では毎週日曜日、幼児から小中学生までを対象とした日曜学校が開かれています。工作や紙芝居など多彩な教材を使った楽しい活動をしています。どなたでも参加できます。 |
正教会初期の伝道は旧仙台藩士から始められた。1873年(明治6)には最初の公祈祷が行われた。戦前の聖堂はその形から「瓢(ふくべ)教会」「白教会」と呼ばれ仙台市民に親しまれた。現聖堂はその形を復元したもので、現在、主教座聖堂として東日本主教々区宗務局がおかれ教区の中心となっている。
仙台に正教の伝道が始まったのは明治2年のことであった。1871年(明治4年)11月にはニコライ師の命により、小野荘五郎、高屋仲、笹川定吉の三師が伝教者として函館から仙台に帰り伝道を開始した。市内4ヶ所に講義所を設けて、百数十名の求道者を集めていた。しかし、翌年5月2日には「邪教を伝えて国禁を犯すもの」として前記3名と共に伝道を応援するために來仙中の澤辺琢磨をはじめ14名が投獄され、同時に信徒約120名が、それぞれ禁足の刑親戚預りの刑を受けるという迫害を受けた。
その後、自由な布教活動が行えることになり、1873年(明治6年)には澤辺、笹川、高屋の三氏によって東一番丁、南町通りの仮会堂において最初の公祈祷が行われた。1877年(明治10年)には「宗教科学講演会」が長期間にわたって開催され、「講習余誌」という雑誌も出版された。その頃から聖堂を建立するため、旧士族から現在の東二番丁角の一帯を買収し付近の土地も買い足し、仙台の中心に広大な土地を得ることができた。
1892年(明治25年)11月、聖ニコライ大主教により成聖式が行われ、ビザンチン様式の白亜の生神女福音聖堂竣工した。荘厳な聖障と5個の調和音を持つ聖鐘や建設資金の大半をギリシャ・アトスのパンテレイモン修道院から寄進されて完成したものである。聖堂の他、付属会館、司祭館、倉庫も建立。聖堂の屋根の先端には大小2ヶの球根を重ねたような葱状ドームの装飾があり、俗に「瓢(ふくべ)教会」とか、道路向かいの赤レンガのプロテスタント教会に対し「白教会」と呼ばれ市民に親しまれていた。
大正、昭和の初期の教会はペテルブルグ帝室音楽学院に留学しリムスキーコルサコフに師事した金須嘉之進氏により聖歌隊は充実、昭和13年にはNHK[日曜礼拝]で聖体礼儀が実況放送された。
1945年(昭和20年)7月9日、仙台大空襲の焼夷弾直撃により敷地内の一切の建築物が焼失したが、幸いなことに金装大福音経や大十字架は防空壕で難をのがれた。終戦の荒廃にもかかわらず昭和20年12月には岩間神父の並々ならぬ努力で木造25坪の祈祷所兼教役者住宅を建設、その後着任した山田以利亜神父は直ちに教勢の振興と聖堂の復興を建議、募金活動をはじめ、戦後の混乱期を経て長期間に亘る募金活動と敷地問題解決の結果、1959年(昭和34年)4月19日にイリネイ主教を迎え生神女福音聖堂成聖式を迎えた。
1970年(昭和45年)、日本正教会はロシア正教会総主教アレクセイⅠ世より聖自治の祝福を与えられ、「日本ハリストス正教会教団」として東京に府主教庁を置き、国内に3つの主教区を持つに至る。その1つが仙台であり、翌昭和46年にセラフィム・シギリスト主教が東日本主教教区を統括する仙台の主教となった。1972年(昭和47年)5月に4階建の信徒会館が完成し、同時に仙台正教会開教100年の各種行事が執り行われた。平成になり聖堂が老朽化したことから新築され1998年(平成10年)12月13日初代の聖堂の面影を保持する聖堂が成聖された。
平成12年1月15日、セラフィム辻永昇主教が仙台の主教として選立され、東北北海道にわたる東日本主教々区を統括している。仙台正教会はその主教をいただく主教座として教区の中心地として位置づけられ現在に至る。