幕末になると日本には諸外国からの使節が次々と訪れるようになる。それまでわずかに長崎を開港し、限られた国との交渉はあったが、鎖国を捨てて開国を余儀なくされるようになったのである。
ロシアは1852年(嘉永5年)プチャーチン提督を条約締結のための使節として派遣するが容易にまとまらず、1854年(安政元年)末に初めて日露和親条約の調印にいたる。この結果箱館に領事を置くことが定められ、初代領事が赴任したのは1858年(安政5年)の秋であった。約7ヶ月の旅を終えロシア本国から赴任したのはイオシフ・アントノーヴィチ・ゴシケヴィチであった。当初日本が用意した建物は狭く、領事一行を収容できなかった。領事家族の他に書記官、武官、医師夫妻、領事館付司祭、下男、下女ら十数名が共に来日したからである。
箱館奉行は日蓮宗の実行寺をロシア領事館仮止宿所として貸し渡し、居住区の他には仮祈祷所を設けた。領事ゴシケヴィチは、サンクトペテルブルグ神学大学を出た人で、中国の北京にあったロシア正教会宣教団にいたこともあった。領事館付司祭としてイオアン・マアホフ神父、またビサリオン・マアホフ誦経者も赴任した。彼らの指導により実行寺境内の仮祈祷所は完成した。安政6年4月の実行寺図面(北海道立文書館「異船諸書付」)には「祭祠堂」として記されている。その説明には「未正月廿日地所貸渡、コンシュル自普請約十五坪祭祠堂」とあり、正門脇に位置していた。
11月14日(旧暦)日本で最初の主日公祈祷が行われたのは仏教寺院境内に建てられた祈祷所でのことだった。
翌年には早速領事館や付属施設の建設に取り掛かるが、それに先立ってゴシケヴィチは箱館奉行宛に用地使用の申し入れをしている。
「大工町上の地東西四拾間南北五拾間を露西亜コンシュル館の為都合せり故に日本政府の決定来る迄コンシュル方家々を建てる為其れを仮に用ゆる事を予承諾す。」
日付、差出人は「千八百五拾九年三月二十日、四月二日、安政六年二月二十八日露西亜コンシュル館イ・ゴスケウイツ」。
翻訳の不備の為に意味が不明の部分もあるが、露暦、西暦、旧暦を書き付けたゴシケヴィチの要請は受け入れられたようである。この「大工町上の地」こそ現在の函館正教会の敷地であり、領事館他次々に必要な建物が建てられていった。そして6月にはイオアン・マアホフ神父の義父ワシリイ・マアホフ長司祭も着任し、この時領事館の備品や調度品と共に建設が予定されていた聖堂の聖器物や聖像も届けられた。
聖堂工事に着手したのは初秋のころで、雪の降る前に基礎工事を終え、すべての工事が完了したのは1860年の6月であった。6月17日(旧暦)にはニコラエスクからインノケンティ大主教が長輔祭以下十数名の教職と聖歌隊を率いて箱館に到着。6月20日(旧暦)聖神降臨祭の日に成聖式が挙行された。新聖堂はハリストスの復活を記憶し「箱館復活聖堂」と名付けられ、後に鐘の音から「ガンガン寺」の愛称で箱館の人々から親しまれる。
聖堂建設工事は奉行所出入りの棟梁、浦川要作が請け負い、辻造船所が鉄骨工事を担当した日本人の手になる初めての正教会の聖堂であった。しかし、当時はまだキリスト教は邪教視され「切支丹宗門禁制」の時代であり、この聖堂はあくまで領事館のロシア人たちのためのものであった。
日本に正教の種が播かれる「宣教」ということが為し得るには「日本の光照者、亜使徒聖ニコライ」待たねばならなかった。