正教会の歴史を説明するには、最初にハリストス(キリスト)とその弟子たちについてふれなければなりません。正教会は、ハリストス(キリスト)によって作られた教会そのものなのです。ハリストス(キリスト)は、十字架にかかり、死に、そして復活した後、昇天されました。そしてこの世の終わりに光栄のうちに再び来られます(「再臨」という)。このハリストス(キリスト)の昇天と再臨の間の期間のために、ハリストス(キリスト)は私たちに「教会」を与えられました。
「教会」はギリシャ語で「エクレシア」と言います。これは「呼び集められた者の集まり」という意味をもつ言葉です。つまり「教会」とは、この世においてそして天国において神の言葉を守り、神の御旨と業を行うために招集された神の民の集まりです。
ハリストス(キリスト)は、凡そ30才の時に公に人々の前に現れ、神の国を教え、やがて十字架と復活という救いの業をなされました。このことを「公生涯」と言います。歴史的に言えば、ローマ皇帝ティベリウス在位(紀元後14~37年)の時代です。
ハリストス(キリスト)はその「公生涯」の最初から弟子たちをご自分のそばに招きよせました。弟子たちは次第に増えていき、その中から特別に12人を選びました。それが「十二弟子」とか「十二使徒」と呼ばれる人たちです。ハリストス(キリスト)は、単なる「教えの言葉」を与えるだけではなく、神の国の体験、人としての正しい生き方、正しい信仰を、生活をとおして伝授するために十二弟子を選ばれたのです。弟子たちはハリストス(キリスト)を見、聞き、触れ、生きた交わりをした人たちでした。そして彼らはハリストス(キリスト)の「復活の証人」となりました。
弟子たちのもとへ聖神(せいしん)が降臨した時、彼らはハリストス(キリスト)の教えの意味、十字架と復活の意味を十分に悟りました。ここから彼らの力強い福音の宣教が始まりました。それで「聖神降臨」の日を「教会の誕生日」と呼ぶことがあります。
ペトル(ペテロ)やパウェル(パウロ)といった最初の弟子たちは、使徒となってハリストス(キリスト)の復活の福音を全世界に伝えるために活躍しました。『使徒行実』にはその様子が記されています。使徒たちの教える福音を信じて洗礼を受ける人たちがどんどん増えていきました。彼等が「クリスチャン」と呼ばれるようになったのはアンテオケという町においてです。
使徒たちは、町々で自分の後継者を育てました。その後継者を中心とした教会が地方地方で大きくなっていきました。その後継者は、聖書では「長老」と呼ばれていますが、今でいう「主教」に当たる人たちです。その「主教」を中心とした教会は、三世紀末には、すでにローマ、アフリカ、エジプト、ギリシャ、小アジア(現在のトルコ)、アラビア、インドなどに広がりました。
クリスチャンたちは毎週日曜日には集まって共に祈り、パンを裂いていました。これは今でいう「聖体礼儀」です。さらに「洗礼」やその他の祈祷が、定型の祈祷文によって執り行われました。 この時代の祈祷文の一部は今も正教会の奉神礼の中で使用されています。クリスチャンたちが集まった場所としては、信徒の家や専用の集会所もありましたが、ローマでは「カタコンベ」と呼ばれる地下墓地に集まり、さまざまな壁画を書いて、信仰を固めていました。
しかし、当時、教会は迫害されていた時代でした。第一にユダヤ教徒から、第二に異教の俗衆から、第三にローマ帝国からの圧迫を受けました。「クリスチャン」というだけで裁判、投獄、拷問、そして処刑された人たちがたくさんいました。それでも信仰を守った人たちのことを「致命者」(一般では「殉教者」)と言います。
また、教会の教えや信仰に対しての論争があり、教会外からその信仰を嘲笑する人たちがいました。キリスト教は、神々を拝まないため無神論者だとか、ハリストス(キリスト)の体と血を食べる人食い人種だとか、愛を教える性的放縦者だとか、そのほとんどは全くの誤解や見当外れのものでした。それらに対して弁護をした「弁証家」と呼ばれる聖人たちがいます。「弁証家」たちは、正教会の「正しさ」を熱心に説いた人たちです。
そして、教会の内部でも、その真理と信仰を歪める人たちがいました。彼等は「異端者」と呼ばれます。異端者は、正教会の正しさの一部を切り捨てたり別の教えを取り入れたりして、自分勝手な間違った教義を唱えました。例えば、グノーシスと呼ばれる異端者たちは、二元論の思想や異教の教義とキリスト教を混合させました。マルキオンという人は、旧約聖書は不要と主張しました。モンタヌスという人は、神の霊によって恍惚状態になることを救いの手段だと教えました。特にハリストス(キリスト)に関する異端については、第二章でお話しします。
こうした迫害者や異端者から正教会を守るため、そして使徒の教えの正しさをしっかりと伝えるため、聖人や「聖師父」と呼ばれる指導者たちが生命をかけて戦いました。また「主教」が正統的な使徒の後継者であることが重要視されました。生きた信仰を生きた人間が伝えることの大切さは今も変わりません。書き留められたあらゆる文書からどれが正統であるかを決める必要もありました。こうして新約聖書が収集され、聖書として認められました。このことを「正典化」と言います。そして「何をどのように信じるのか」を端的にあらわした信仰箇条が各教会で作られました。しかしこの信仰箇条は、やがて「ニケヤ・コンスタンチノープル信経」に集約され固定されます。これらは正教会の聖伝を正しく伝えるために行われたことです。
このように初代の教会は、迫害されていた時代にもかかわらず(「だからこそ」と言い換えてもよい)、規模としても信仰の内容としても目を見張るほど成長しました。
正教会は、この初代教会からの生きた信仰を今日まで伝えているキリスト教です。
四世紀の初め、教会にとって重大な転換が起こりました。それは、コンスタンチン大帝によるキリスト教の容認です。これによってローマ帝国による迫害時代は終わりました。コンスタンチン大帝は、ビザンチウムという町に帝都を移し、「コンスタンチノープル」と名づけました。やがてキリスト教は国の宗教となり、守護される時代になりました。どんどん聖堂が建てられ、奉神礼は整えられ、聖器物は精巧を凝らされ、人々は生まれてすぐ洗礼を受け、こうして「ビザンチン帝国」と呼ばれるようになった国の中で、教会はみるみる大きく拡大していきました。
教会は経済的に豊かになっただけでなく、精神的な豊かさも生み出しました。その一つは「修道」です。最初、エジプトにおいて修道が行なわれ始めました。聖大アントニイや聖パホミイといった人たちが、人里離れた砂漠や洞窟などで、神との一致を求めて究極の生活を実践しました。修道士たちは、絶え間ない祈りと節制(正教会では「斎(ものいみ)」と言う)の生活をとおして、正教会の信仰を守り抜く人々です。迫害時代には「致命」によって表明された生命がけの信仰が、平和な時代には「修道」によって表明されます。つまり正教会にとって「致命」と「修道」は一つのものです。修道には、たった一人で生活する隠遁の形と、共同体を作って生活する修道院の形があります。しかし、隠遁修道士のもとへ多くの弟子たちが集まったので次第に修道院が作られていったということもあります。修道院の中でもギリシャのアトス山の修道院は、正教会にとって非常に重要な存在です。
教会の精神的な豊かさは、もう一つ「聖師父」(一般では「教父」と呼ばれる)たちの活躍です。説教が上手で「黄金の口をもつ」とあだ名された金口(きんこう)イオアン(ヨハネ)や、カッパドキヤの三聖師父とよばれる聖大ワシリイ、ニッサのグリゴリイ、神学者ナジアンザスのグリゴリイ、正教会の信仰をまとめたダマスコのイオアン(ヨハネ)など、多くの聖師父たちが、正教会の正しい教えを確立させました。
正教会は、政治的には平和の時代を迎えましたが、しかし内部からその一致を乱す異端者は後を絶ちませんでした。そんな異端者たちと戦ったのも聖師父たちでした。そして、教会として正統さを守りぬくため、全部で七つの「全地公会」と呼ばれる会議が開かれました。
七つの全地公会 | |||
第一 | ニケヤ会議 | 325年 | ハリストス(キリスト)を被造物と唱えるアリウスの異端を断罪 |
第二 | コンスタンチノープル会議 | 381年 | 信経の決定 |
第三 | エフェス(エペソ)会議 | 431年 | マリヤを生神女と認めないネストリウスの異端を断罪カルケドン会議 |
第四 | カルケドン会議 | 451年 | ハリストス(キリスト)に神性しか認めない単性論の異端を断罪 |
第五 | コンスタンチノープル会議 | 553年 | ハリストス(キリスト)に関する再定義 |
第六 | コンスタンチノープル会議 | 680年 | ハリストス(キリスト)に神の意志しか認めない単意論の異端を断罪 |
第七 | ニケヤ会議 | 787年 | イコンを偶像として破壊した聖像破壊論者を断罪 |
この他にも、重要な決定がなされた地方公会議がたくさんあります。
これらの全地公会で定義された教義的内容は、正教会の聖伝の中でも永遠に揺るがない部分です。正教会の信仰の根幹が、約800年の歳月をかけて築かれたことを見落としてはいけません。そしてこの七つの公会議の内容を忠実に守っているキリスト教は正教会だけです。
さて、少なくとも六世紀ごろには、五つの大きな教会の中心地がありました。これらを「五大総主教区」と呼びます。その五つとは、コンスタンチノープル、ローマ、アレキサンドリア、アンティオケヤ、エルサレムです。これら一つ一つには、信徒を監督し指導しまとめる「総主教」がいましたが、しかし彼らのうち、誰がえらいとか優れているとか支配権をもつかなどの抗争はせず、神のもとでみな同じであり、一致していました。しかし、町の規模としては、やはりコンスタンチノープルとローマが大きかったので、次第に両者に亀裂が生じたことも事実です。またローマを中心とする教会は、ヨーロッパ地方への伝道に熱心だったこと、教会の権威を主張し「法王」という考え方を導入したこと、ラテン語の文化圏にあったこと、などから、次第に他の四総主教と違った歩みを始めました。こうしてローマを中心とした教会、つまり「ローマ・カトリック」と呼ばれる教会と、私たち正教会が袂をわかつことになってしまいました(凡そ十一世紀ごろ)。
七世紀になると、後に正教会を脅かしたイスラム教が勃興しました。モハメッドを祖とするイスラム教は、次第に勢力を広げ、十一世紀頃には、キリスト教を迫害し、聖地エルサレムを攻略しました。これに対して聖地奪還の目的でカトリックから派遣された軍隊が「十字軍」です。しかし、最終的には目的は果たせず、時には目的を見失うようなこともしてしまいました。その中で最も注目されるのが第四十字軍で、彼等はエルサレムではなく、こともあろうかコンスタンチノープルを攻略してしまったのです。これこそが正教会とカトリックの分離を決定付けた事件と言われています。
ビザンチン帝国は、十五世紀にオスマン・トルコによって滅亡してしまいます。かつては正教信徒がたくさんいた町や地方は、今ではイスラム教徒で満たされています。しかし、約1000年間続いた正教の国において、正教会の教えは基礎を固め、不動のものとなったのです。またその間、正教会は、ブルガリア、セルビア、そしてロシアといった国々にも熱心に伝道され、正教会の信仰は途絶えることなく引き継がれていったのです。
九世紀の半ば、キリルとメフォディという兄弟が、スラブ民族に正教を伝道するために活躍しました。その頃スラブ語には文字がなかったため、彼等はスラブ語のアルファベットを、ギリシャ語を基に考案しました。キリル文字と言われるその文字を使って、教会の諸文書が翻訳され、奉神礼が行なわれ始めました。こうして彼等の活躍は、ロシアへの伝道と繋がっていきました。
988年に、キエフ公国の国民が、ウラジミル大公の指導によって正教会の洗礼を受けたことから、ロシアの正教会が始まります。ウラジミルは、国民にとって最良の宗教を選ぶために使節を派遣し、コンスタンチノープルでの奉神礼の体験を報告した使節団の言葉を聞いて、正教を受け入れたというエピソードが残されています。ウラジミルは正教会を国教とし、民にハリストス(キリスト)の教えを植付けた信仰深い聖人として敬われています。ウラジミルに多大な影響を与えた祖母のオリガや、戦いを放棄して無抵抗のうちに殺されたボリスとグレブという彼の息子たちも、ロシアに正教会が根付いたことを証しする聖人たちです。
十一世紀のキエフ朝ロシアでは、修道精神が確立していきました。キエフの洞窟の中に作られた修道院で、ハリストス(キリスト)の福音が実践され、謙遜と愛の生活が育まれたのです。
しかし、十三世紀になるとロシアはモンゴルの支配下に置かれるようになりました。よく「タタールのくびき」などと呼ばれます。しかし、やがてモスクワ公ディミトリイによってモンゴル軍が敗退し、次第にタタール支配は崩れていきました。その時代の精神的支柱となった人物が、ラドネジの聖セルギイです。聖セルギイは、ロシアで最も敬愛されている聖人の一人です。
ロシアはやがてモスクワを都とする帝国へと成長していきます。その際、「第三のローマ」という考え方が基礎をなしていました。第一のローマに続いて第二のローマであるコンスタンチノープルが崩壊した後、モスクワがその後継者であるとして、「双頭の鷲」のシンボルをも継承しました。そんな時代、教会では「所有派」と「非所有派」が論議を戦わせていました。修道院や教会は、国家や社会と密接に結びつき、財産を管理し、人々のための活動を行なうべきであるという主張をしたのが「所有派」の人々で、一方、修道院や教会は、財産の所有や管理からは自由であるべきであり、国家の支配下からも自由であるべきで、謙遜と清貧の中で静寂な祈りを求めなければならないとしたのが「非所有派」の人々です。結局、正教会は、この対立する二つの考えを、二つとも受け入れました。
十七世紀のロシア正教会において特筆すべきことが二点あります。一つは総主教ニーコンの改革です。ニーコンは、その時代に執行されていたロシア教会の奉神礼が他の国の正教会と異なることに気がつき、諸外国とくにギリシャの習慣に合わせるよう訂正を求めたのです。これは教会の会議で承認されたものの、猛烈に反対する人々もいました。この反対者たちは、「旧教徒」とか「古儀式派」などと呼ばれ、現在でもそのロシアの古い奉神礼の習慣を守っています。
さてもう一つは、ペートル大帝による西欧化です。ペートルは、ロシアの伝統に否定的な態度をとり、ヨーロッパの文明を極端にそして強引に取り入れました。教会にもこの西欧化の波はかなり強くかぶさりました。「旧教徒」がこれにますます反対したのは言うまでもありません。神学や奉神礼、イコンや聖歌などにも西欧化の影響は及び、長い間、正教会を揺るがしました。特にペトル(ペテロ)・モギラという人はラテン神学を取り入れた教義解説書や祈祷書を編纂しました。
ペートル大帝はロシアにおける「総主教制度」をも廃止し、そしてかわりに「聖務会院」という制度を作りました(1721年)。「聖務会院」は、皇帝の指名する役員によって構成され、教会を運営していく組織です。これは全く正教会の伝統とはかけ離れたプロテスタント的な制度でした。ロシアにおける聖務会院制は、皮肉にもロシア革命によって総主教制度が復活するまで続きました。
しかし、正教会の根幹は揺るぐことなく、大いに信仰は花開き、精神性は高められました。祈りについての聖師父たちによる指導書である「フィロカリア」がロシア語に翻訳され、修道性が深められました。オプティナ修道院という所では、精神的な高徳の指導者たちが続出しました。十九世紀のロシアには、サーロフの聖セラフィム(セラピム)、聖フェオファン・ゴヴォロフ、クロンシュタットの聖イオアン(ヨハネ)、府主教フィラレト、アレキセイ・コミャーコフといった人々が、正教会の聖伝に基づいた信仰を輝かせました。
ところが1917年、ロシアは共産主義による革命が行なわれ、ソビエト連邦となり、無神論の国になってしまいました。総主教制度は復活し、最初にティーホン総主教という優れた指導者を得たものの、信徒は迫害され、聖堂は壊され、修道院は没収されるというかつてない受難の時代を迎えたのです。スターリンは「宗教の自由」と同時に「反宗教の宣伝の自由」を憲法に掲げ、公式に容赦なく教会を迫害しました。
この無神論者の支配下にある総主教制度に抵抗してロシア正教会から離れた人たちがいました。彼らは「在外シノド」と呼ばれます(「シノド」とは「聖務会院」の意)。
しかし、共産主義国家であるソ連は、約70年で崩壊しました。 その迫害に耐え抜いた正教会は、ペレストロイカ以降、次々に息を吹き返し、活力を得、今、まさに大花を開かせています。スターリン時代にダイナマイトで爆破されたモスクワの救世主大聖堂が1997年に見事に再建されたことは、象徴的です。
日本にロシアから正教会が伝えられたのは、19世紀の後半のことです。文久元年(1861年)、日本への伝道を決意した聖ニコライが、函館にやってきました。聖ニコライは、その国の文化を否定せずに大いに受け入れてキリスト教の信仰を土着させるという正教会の聖伝にのっとり、その当初から日本人のための日本人による正教会を目指していました。それで聖ニコライは、日本の文化を学ぶため、日本語を習得し、「古事記」や「日本書紀」などを読み、仏教を学び、日本の風俗習慣を研究しました。そして、すぐに日本語による奉神礼ができるように、祈祷書を翻訳し始めました。明治15年頃から、漢学者パウェル(パウロ)中井木菟麿がニコライの翻訳の補助に入り、次々と膨大な量の祈祷書そして聖書が翻訳されていきました。ニコライによる奉神礼書の翻訳は死の直前まで続けられました。私たち日本の正教徒は、この神に祝福されたニコライの翻訳の恩恵に与っています。ニコライは、奉神礼にふさわしい文体として漢語調の文語体を選びました。私たち現代の日本人には難解ではありますが、聖神の恩賜(おんし)を伝える媒介として最善の言葉が選択されています。
日本人として初めてニコライから洗礼を受けたのはパウェル(パウロ)沢辺琢磨、イオアン(ヨハネ)酒井篤礼、ヤコフ浦野大蔵の三人でした。中でも沢辺琢磨の回心のエピソードは注目されます。生粋の土佐藩士で坂本竜馬の従兄弟にあたる沢辺は、函館で剣術を教えていました。彼は最初、外国人を嫌い、ロシア人であるニコライを見て日本国を毒する輩と決めつけ、ある日、論争を持ちかけてあわよくば切捨ててしまおうとニコライのもとへ乗り込んでいったのです。しかし、ニコライの話を聞くうちに反対にその教えの高尚さに心打たれ、やがて正教会の信仰を熱心に奉ずるようになり、後には司祭となりました。
ニコライは明治5年頃、東京に伝道の本拠地を移し、正教会の伝道を熱心に行いました。教勢はめざましく発展して、日本全国に正教会の種がまかれていきました。明治18年には信徒数はすでに一万二千人を越えていました。
明治24年、東京の神田駿河台に、ビザンチン建築の「復活大聖堂」が建立され、ニコライの名に因んで「ニコライ堂」と呼ばれるようになりました。当時としては驚くべき大きさで荘厳なその姿は多くの人々の関心を引き寄せました。
奉神礼に欠かせない聖歌の面についても、ヤコフ・チハイやデミトリイ・リオフスキーといった人たちが来朝して熱心に音楽の基礎を教え、日本音楽史上初めてと言われる四部合唱の聖歌隊が編成されました。彼等が編曲・作曲した聖歌は今でも歌われています。
明治時代、ロシアに留学してイコンを学んだ女性である山下りんの存在は、一般美術史の目からも注目されています。彼女の書いたイコンは、今でも各地の正教会に掲げられています。
正教会の神学校もニコライによって創立され、聖職者だけでなくさまざまな分野で活躍する人々を輩出しました。正教会の信仰、教義、精神性などを伝えるために、多くの正教会関係の文書が翻訳、出版されました。残念ながら現在、日本正教会には修道士たちが修道生活を送る修道院や、教会運営の病院や福祉施設や大学などはありませんが、正教会の信仰はニコライによってしっかりと日本に根付きました。ニコライは使徒と同じような働きをした聖人として「亜使徒」と呼ばれます。
日本正教会は、明治の後半から大正、昭和にかけて苦難の時代を迎えます。まず日露戦争によって、日本とロシアの関係が悪化し、正教会が白眼視されたことがあげられます。そして、偉大なる師ニコライが永眠します。優れた後継者であるセルギイ主教がその後を継承しますが、突然、ロシア革命という決定的打撃を被りました。日本正教会は、物理的にも精神的にも孤立無援の状態となり、あたかも幼い子供が母を失ったかのようでした。ロシア正教会に吹き荒れていた混乱が日本にも押しよせようとしましたが、セルギイ主教は、しっかりと正教会の正しい聖伝を死守しました。ところが引き続いて起こったのが、関東大震災によるニコライ堂の崩壊です。鐘楼が倒れ、ドーム屋根が崩落し、火災が起き、聖堂内部のものをすべて焼き尽くし、貴重な文献や多くの書籍なども焼失してしまいました。セルギイ主教は日本全土の信徒を訪問し、再建のための募金を集めました。こうして昭和4年に東京復活大聖堂は復興しました。しかし、日本の中では正教会だけでなくすべての宗教にとって政治的な統制を受ける困難な時代を迎えました。世界大戦の混乱と悲劇の中、終戦を迎える直前、セルギイ府主教は永眠しました。司祭や伝教師などが激減し、信徒の多くも離散してしまいました。
戦後、日本正教会は、アメリカ正教会から主教を迎えました。
アメリカ正教会もロシアから伝道された正教会で、日本とは姉妹関係にあります。そしてアメリカ正教会がロシア正教会から完全独立するのに伴い、昭和45年日本正教会も自治教会となりました。
自治教会とは、完全には独立しないものの、経済的には独立し、日々の教会運営を独自に行うという形です。自治となった後にフェオドシイ永島主教が最初の邦人府主教となり、日本正教会は低迷していた教勢や財政の立て直しに励みました。各地で聖堂が再建され、信徒の啓蒙教育や宣教活動が活性化されました。フェオドシイ府主教の永眠後、ダニイル主代府主教座下が新立し、現在、日本正教会は大きな希望をもって歩みを新たにしています。
ハリストス(キリスト)が始められた教会は一つです。しかし現実的に残念ながら教会は分裂してしまいました。新約聖書の時代、すでに教会には争いや対立などがありましたが、聖使徒パウェル(パウロ)は熱心に教会の一致を説きました。しかし教会の中から出てきたアリウスとかネストリウスといった「異端」に関しては、正教会は一致を求めるのでなく完全に教会の外に追放してきました。だからこそ正教会の正しい教えが守られてきたのです。
同じ正教会(オーソドックス)と呼ばれるものの、すでに5世紀ごろから分離した教会があります。ハリストス(キリスト)に神としての一つの本性しか認めない「単性論派」の教会です。現在、エチオピア正教会、コプト正教会、シリア正教会、アルメニア正教会などがあり、非常に伝統的である点はまさしくオーソドックスです。これらの教会と私たち正教会との正式な和解は未だですが、歩み寄りはなされています。
次に「2 ビザンチン時代」で少しだけふれたように、ローマ・カトリックと正教会の分岐が起こりました。実は地理的な問題、文化的な問題、政治的な問題もあいまって、ローマを中心とする教会と正教会は早い時期から亀裂を生じていました。「カトリック」とはもともと「完全」とか「普遍」とか「公」という意味をもつギリシャ語で、正教会も、すべての時代すべての場所に共通する真理をもっているという意味では、「カトリック」です。しかし、ローマ・カトリックでは、ローマ法王を最高権威として全世界に教会を行き渡らせるという意味をもっています。そういう意味では正教会は「カトリック」ではありません。正教会とローマ・カトリックとでは明らかに伝統も歴史も文化も神学も組織も異なります。日本では認識不足の故に、しばしば正教会がカトリック教会の一つとして説明されたりしますが、全くの誤解ですのでご注意ください。ローマ・カトリックと正教会の違いは、ここでは説明できないくらい大きくまた細部に渡ります。一番大きな差は、全世界の最高権威を主張するローマ法王を正教会は認めないことです。神ハリストス(キリスト)以外に世界の最高権威は存在しません。習慣的な差としては、カトリック教会側が妻帯司祭を認めないこと、ミサに無発酵パンを用いること、礼拝に楽器を使用することなどがあげられます。つまり正教会では、妻帯者を司祭に任命することができ、聖体礼儀には発酵パンを使い、奉神礼では一切楽器を使用せず肉声だけで行ないます。他にも十字架のきり方、聖堂の建て方、美術に対する姿勢などの違いがあります。神学的にはマリヤ様に関すること、三位一体の神に関する教義の違い(「フィリオケ」問題という。第二章の④を参照)、煉獄という考えの是非、さらにはハリストス(キリスト)の十字架に対する見解の差もあります。ローマ・カトリックでは20世紀までずっとラテン語でしか礼拝をしなかったこともあげられるでしょう。しかし、1967年の第二バチカン公会議以降、ローマ・カトリックも様変わりし、各国の言葉を受容し、礼拝の刷新が行なわれたようです。
こうしたローマ・カトリックから分離したのが「プロテスタント」と呼ばれる諸教会です。16世紀頃、マルティン・ルターが始めた宗教改革によって、次々とローマ教会から離れて独自の歩みを始める教会が続出しました。「プロテスタント」とは「抗議する」「反抗する」という意味で、ローマ・カトリックの言うことなすことに反対して生まれた教会です。当時のカトリックは、堕落していた時代ともいわれ、「免罪符」を買えば罪の赦しが得られるなどと言われていたことは有名です。信徒に聖書を読ませず、ただ教会のいうなりにされていたことに対して、宗教改革者たちは正しくも反論したのですが、ふりこの錘(おもり)と同じで、反対し過ぎてしまい、中庸を保てませんでした。カトリックの伝統重視に対しては「聖書のみを信じるべきである」と言い、徳や献金による救いに対しては「ただ恵みによって信仰によって人は義とされる」と説き、重圧な教会階級制度には「万人が司祭である」と唱えました。一口でいえば、「自由」がプロテスタントの本質です。だからこそ、様々な主義主張がなされ、対立し、多くの派に分かれています。まるで細胞分裂するかのように分派し今では数百から数千もの教派があると言われています。つまり「プロテスタント」という一つの教会があるのではなく、色々な教派の教会をひっくるめてそう呼ばれているのです。有名な教派としては、ルター派、カルヴァン派(改革派)、バプテスト派、メソジスト派、福音派などがあります。イギリス国教会である「聖公会」もプロテスタントの一つですが、伝統を重んじる面もあり、正教会に近い点もあります。プロテスタントとは歴史的に新しく出てきた教会なので「新教」とも呼ばれます。これ対してローマ・カトリックは「旧教」と呼ばれます。正教会は「旧教」でも「新教」でもありません。「正教」です。
新教の教会は普通「聖書のみ」がキリスト教の土台であり、聖書に書いてないことは教会として認めないという立場をとります。聖書が正教会の聖伝から生み出されたことを全く無視しているわけです(実際的な面から見ても聖書を原語のギリシャ語で写本して守ってきたのは他ならならぬ正教会です!)。もちろん、正教会はその聖書に根ざした信仰を正しく守っています。プロテスタント各派は、正教会のイコンを偶像視しますし、十字架なども切りません。中には三位一体の神を唱えなかったり、ハリストス(キリスト)が人となった神であることも無視したり、ただ愛の教えを命がけで説いたお方だとか、十字架によって人類の負うべき罪(罪というより罰)をハリストス(キリスト)が身代わりに背負ってくれたことが救いであるとだけ言って満足する教会もあります。
これらの他に、「新興宗教」とよばれる教会が大いに勢力を増しています。彼らは「キリスト」や「聖書」を用いますが、実は「キリスト教」ではありません。終末論を曲解して不安を与え、教祖の教えを救いとして提示し、勢力拡大を熱心に行うカルト的な宗教です。惑わされないように気をつけましょう。