日本正教会

明治文化とニコライ

教勢の発展に伴い、神学校や出版事業などが活発化され整備されてくると、聖ニコライの門下から優秀な人材が続出した。

 黒野義文は日本ではほとんど知られていないが、ペテルブルグ大学で日本語を教授した人で、その門下からはロシア、アメリカ、ヨーロッパに日本学の伝統を築いた学者たちに日本語を教えた人である。また、小西増太郎はトルストイとの関係で著名であり、その交流については「トルストイを語る」(小西増太郎 桃山書林)に詳しい。彼は明治29年(1896)庄司鐘五郎の発案企画で、佐藤叔治らと東京飯田町に露語学校を開設した。その佐藤は東京正教神学校に学び明治17年(1884)カザンの神学大学に入学した。明治21年に帰国し神学校教授となったひとである。

 金須嘉之進は、大聖堂指揮者として著名である。彼はロシア帝室音楽学校に学び、ヴァイオリン、聖歌指揮を修得。明治26年に帰国し、50年間デミトリイ・リオフスキーと共に男女正教神学校の聖歌指揮者として活躍した。

 明治17年(1884)3月には、懸案の大聖堂建築の工事に着手した。信徒数も一万を超え、毎年の受洗者も千人をはるかに超え、増加発展する教会のために信者のシンボルが必要と考え、大聖堂の建立に着手したのである。明治24年(1891)3月、大聖堂は竣工し成聖式が行われた。7年の月日を費やした大工事で、その壮大さ、優麗さ、堅牢さ、優美さは東洋一と称された。成聖の祭典は数日間にわたって執り行われ、各界名士、各国大使、公使、他教派代表、信徒、一般参拝者でいっぱいとなった。また、このときに臨時公会も開催され、司祭19名、輔祭6名、伝教者124名、代議員(信徒代表者)66名の出席があった。復活大聖堂は明治、大正、昭和にわたって聖ニコライの偉大な事業をたたえ、一般の人々からいつからともなく「ニコライ堂」と呼ばれるようになった。残念ながらこの大聖堂は大正12年(1923)の関東大震災のときに、鐘楼がドームの上に倒れ崩壊し、内部を焼損してしまったが、聖ニコライの後継者であった府主教セルギイによって、昭和4年に修復復興し、現在に至る。

 明治時代は日本における近代化の重要な時期であった。急激な社会の発達をもって日本も明治中期には世界の列強と肩を並べるまでになった。日清戦争後、日露の関係も対立の様相を帯びてくる。明治24年の大津事件はまさにそのような情勢の中で起きた事件であった。日本政府は日露関係の悪化を恐れ内相、外相の引責辞職、明治天皇は元老や閣僚を従えて病床にあるロシア皇太子を見舞った。聖ニコライも神戸港に停泊中の皇太子の乗る艦船に行き、親しく皇太子を見舞った。これは聖ニコライが政府関係者にも心から信頼される一つの機縁となった。

 しかしながらその後も日露関係が思わしくなく、ロシアから日本に送られる伝道資金も減少、一時はストップする事態もあった。明治36年、聖ニコライは教書を発し、経済危機を脱し独立するための献金募集を行った。明治37年、とうとう日露の国交は断絶し戦争状態となる。ロシア公使館の引き揚げに伴い、聖ニコライにもロシア政府からその進退を決するように勧告された。そして、彼は日本にとどまることを決めその旨を訓辞として在京の司祭、教役者の集会において明らかにした。戦争は日本の勝利に終るが、その間に捕虜になったロシア将兵は全国27ヶ所に収容された。日本政府はこれら捕虜を厚遇し、日本正教会も聖ニコライの計画指導のもと、各収容所に司祭を派遣し、聖体礼儀やその他の祈りをロシア語で行った。ロシア語の福音書や祈祷書、パンフレット等も発行され、このようなことは日本正教会の博愛的精神の名を高めることとなり、聖ニコライの偉大な人格を広く知らせることとなった。

 聖ニコライは教勢の内容充実を図るために、出版事業と文書伝道に重きをおいた。種々の出版物は信徒の啓蒙となったばかりではなく、明治時代の精神界、文学界にも影響を与えた。「正教新報」また明治26年には「うらにしき」(裏錦)という女流文学雑誌が正教女子神学校を背景とする尚絅社から出版された。キリスト教家庭雑誌としては「正教要話」がありこれは大正7年まで刊行される。聖人伝や訓話などが豊富に掲載されたものである。また、神学、哲学の学術雑誌として「心海」が明治26年創刊され、日本のキリスト教神学、当時の思想界に大きな影響を及ぼした。また、聖ニコライの偉業の一つに数えられることとして、聖書、諸祈祷書の翻訳があげられる。中井木?麻呂とともに聖書、聖典の翻訳を行い、日本正教会の体制形成は、これらの出版によって築かれていった。明治17年「時課経」、明治27年「奉事経」、明治28年「聖事経」、明治37年「三歌斎経」、明治43年「祭日経」、「八調経」というぐあいに、各種奉事用の祈祷書が次々と出版され、儀式奉事に関して一応完備することとなった。