日本正教会

宣教と初穂

 ロシア領事ゴシケヴィチは1865年(慶応元年)帰国し、後任にはケウゲニイ・カルロヴィチ・ビュッオフが赴任した。そのころ館員たちに剣道を習うことを希望する者がいて師匠を探した。その任に招かれたのが澤邊琢磨であった。後に日本人最初の正教の洗礼を受け、最初の日本人司祭となる澤邊と聖ニコライの出会いとなるきっかけである。

 澤邊は元土佐藩士で、坂本竜馬の従弟であった。江戸に出て千葉周作に剣術を学んだ熟達の腕であった。事情があって江戸を離れ箱館に渡り、神明社の宮司澤邊氏の女婿となっていた。

 領事館に出入りするようになると、自然聖ニコライのことを知ることになる。熱心な尊王主義者で鎖国攘夷論者であった彼は、箱館が北海の要地となって多数の外国人が往来するのを快く思っていなかった。自身、宮司の娘を妻としていたせいか、ことのほかキリスト教を嫌っていた。

 司祭である聖ニコライこそ日本国を毒する禍根であるとし、論争を持ちかけ、その答弁いかんによっては殺害しようとした。領事館の聖ニコライの部屋での両者の緊迫した対話は良く知られているが、澤邊は聖ニコライの「未だ自ら識らざるのハリストス教を、何故に憎むべきの邪教と名付けらるるか、もし自ら識らずんばこれを研究して、然る後に正邪如何を決すべきにあらずや」の言葉に従うことになる。そして3日目の正午頃になって聴くことを筆記するようになり、それからは熱心に聖ニコライの教えを請うようになった。

 澤邊は正教を信じると、その熱烈な性格からこれに熱中し、他人にも正教の信仰を奨めるようになる。しかし、世間の人々は彼が以前には憂国の志士で攘夷論者と知られていたので発狂したと思い、耳を傾ける者はなかった。

 澤邊の知人に医師の酒井篤礼がいた。本姓は川股で、奥州の陸前国金成(宮城県金成町)の出身で緒方洪庵の適塾で学んでいた。澤邊は親交ある酒井に正教を奨めるが、温厚で思慮深く篤学の酒井をなかなか説得できなかった。酒井に論駁されると澤邊は聖ニコライのもとに来て教えを受け、また酒井に向った。

 こうしたことが一年近く続いたが、酒井自らが聖ニコライを訪れ教えを受け、正教を信じるようになる。澤邊は南部宮古出身の浦野大蔵や箱館の鈴木富治を信仰に導いていき、正教の教理の研究が少数の日本人の間に芽生え、仲間に加わる者も増えてきた。
この時代、切支丹禁制の高札は全国いたるところにあって江戸幕府の末期とはいえ切支丹に関わることは国法を犯すことであった。

 1867年(慶応3年)将軍徳川慶喜が大政を奉還し、王政復古となる。新政府の体制はまだ確立されていなかったし、戊辰戦争も東方地方で行われており、箱館も混乱するようになる。新任の箱館奉行は京都の公卿でありキリスト教を禁圧するという風聞がたち、キリスト教を信仰する者や学ぶ者たちは動揺した。
聖ニコライのもとで正教を学ぶ者たちも同じで、教えを捨てる者や離れていく者たちが続いた。しかし、澤邊たちの信仰は固く正教の伝道に志を燃やした。鈴木富治は、澤邊、酒井、浦野に身を隠すことを勧めるが、どこに行っても危険な状況は避けられないとの判断から、どのような事が起こっても良いようにと聖ニコライに洗礼を受けたいと申し出た。

 聖ニコライもかねてからその事を予期しており、直ちに承諾した。しかし、密告迫害の恐れを警戒し、聖堂では行わず領事館内の聖ニコライの居室で行うに至った。聖ニコライ自ら聖器物を運び、部屋の外では領事館付誦経者サルトフが外を見張る中秘かに洗礼機密が執行された。澤邊はパウェル、酒井はイオアン、浦野はイヤコフの聖名を受け式は無事終る。時に1868年4月(慶応四年)のことであった。
聖ニコライが正教伝道の志を持って来日してから7年目の「初実の果」である。神の摂理によって迫害者サウロが改心によって聖使徒パウェルとなったように、澤邊琢磨もパウェルの名にふさわしい生涯を歩むことになる。

 洗礼を受けた澤邊、酒井、浦野、そして酒井の妻(後にエレナ)と女児(後にテクサ)は箱館を出る。困難の旅の末、酒井は故郷の金成の刈敷村に身を潜め、浦野は宮古の近くの金沢村に帰った。
澤邊は一時浦野宅に寄寓し江戸に向ったが、時あたかも戊辰戦争の最中であり交通も自由でなかった。途中幾度か難に遭い江戸に行くことは不可能と判断し箱館に戻ることになる。

 このころ箱館は幕軍の脱兵や仙台藩をはじめとする奥州諸藩の脱兵が集まり、官軍に抵抗しようとしており騒然として切支丹の問題は忘れられていた。そして聖ニコライは日本国内の混乱、仏教の衰え、神道の無気力な現実を見て布教の好機が到来したと判断する。ロシアで有志を募り日本伝道会社を設立することを考え、聖務院に帰国の請願を送りその許可を待ち、聖務院の許可を得て、 1869 年(明治2年)の初めに一時帰国した。